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東京地方裁判所 昭和49年(ワ)1342号 判決

原告(兼亡茂木孝平訴訟承継人)

茂木定

外四名

右原告ら訴訟代理人

志賀剛

白谷大吉

被告

荻野利之

右訴訟代理人

大原誠三郎

外三名

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一、請求の趣旨

1  被告は原告茂木定に対し、金五一一万三三三三円および内金四六四万六六六六円に対する昭和四九年三月一〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を、原告田中島孝子、同飯島雄子、同茂木順子、同茂木孝雄に対し、各金六三万九一六六円および各内金五八万〇八三三円に対する昭和四九年三月一〇日から完済に至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

主文同旨の判決

第二  当事者の主張

一、請求原因

(当事者の身分関係等)

1 原告茂木定(以下、「原告定」という。)は訴外亡茂木君江(以下、「亡君江」という。)の母、訴外亡茂木孝平(以下、「亡孝平」という。昭和五〇年一〇月一四日死亡)は亡君江の父、亡孝平訴訟承継人原告田中島孝子他三名(以下、「原告孝子ら」という。)は亡君江の兄弟姉妹であり、被告は肩書地において精神病院五和貴診療所を営む精神科の医師である。

(本件事故の発生)

2 亡君江は、昭和四八年一月二二日右診療所で被告の診察を受けた結果、以前に発病したことのある精神分裂病が再発したと診断され、同日から診療所に入院して治療を受けていたところ、同年四月一二日午後一時五〇分頃被告の事前の許可を受けて外出中に、東京都墨田区京島一丁目五番一五号京成電鉄押上三号踏切において、道路両側から降りていた遮断器の棹の中央のわずかな隙間からふらふらと同踏切に侵入し、折から進行して来た電車に接触して跳ね飛ばされて即死した。

(責任原因)

3(一)(1) 亡君江は、昭和四八年一月二二日被告との間に被告が亡君江を五和貴診療所に入院させその精神分裂病の治療、看護に当ることを内容とする契約を締結した。従つて、被告は、亡君江に対し右債務の本旨に従つて善良な管理者の注意義務をもつてその治療、看護をなすべき義務がある。

(2) 本件事故に至るまでの亡君江の病状と被告の治療行為は次のようなものであつた。即ち、(イ)亡君江は、昭和四一年頃(当時一七歳)被害念慮(妄想)を主徴とする精神分裂病と思われる病状を呈し、毛呂病院精神科に約二年間通院したことがあり、昭和四八年一月頃再び同様の症状が現われ始めたため、同月二二日被告の五和貴診療所に入院した。なお、右診療所付近は交通頻繁な危険な場所であり、同診療所は開放病棟である。(ロ)亡君江の症状は、イライラする神経質な状況で興奮したり、被害妄想による不安と幻聴があつたりするので、同女自身自分の病気は不治だと絶望的な感想をもらし、被告は自殺の危険ありとして特別に注意していた。(ハ)その後、亡君江の症状は被告の投薬で軽快に向い、昭和四八年二月一二日集団散歩、同月一九日単独散歩を許可されたものの、投薬の量も増加の一途をたどつており、症状にも動揺があつて必ずしも全般的に軽快に向つたものではなく(この時期に原告定らと買物に出かけた際急に自動車の前に飛びだしたりしている。)、なかんずく同年三月二三日以降は全く病状の悪化を示す挙動が多くなつている。(ニ)更に事故直前の同年四月六日には亡君江が無断退院をしようとして看護婦に止められたが、その際右看護婦を平手で殴打するという重大な緊張型の症状も現われ、同月一〇、一一日には口の中の皮がむけたという妄想をすら訴える状態であつた。(ホ)被告は、亡君江の治療に当つて、特に同女や家族の者から詳しく病状を聴いたり家族をも含めてその治療方法を協議する等のことを全く行なわず、投薬のみに終始し、亡君江の病状に対する診断も軽快に向つたという楽観的に過ぎるものであつた。(ヘ)結局、亡君江は精神分裂病による幻覚、妄想のため、または被告の投薬による催眠作用のため朦朧状態にあつて前記本件事故に遭つた。

(3) 被告は、前記(2)のとおり交通頻繁な危険な場所で精神病患者に対し開放療法を行なつている訳であるから、閉鎖病棟内で治療するのと異なり、より正確かつ詳細に入院患者を診察してその病状を把握すると共に患者の安全保護のため症状に応じた適切な看護を要求されており、特に本件では亡君江の事故前の症状を正しく診断し外出を一時禁止するか、少くも看護人を付して時間的場所的制約を加えたうえで外出を許可すべきであつたのに、漫然と楽観的に過ぎる診断をして亡君江の看護を十分に行なわなかつたという注意義務違反がある。

また、仮りに亡君江の死亡原因が原告ら主張のとおりでないとしても、同女が本件事故を起したことはやはり精神病患者に対する被告の看護が十分でなかつたことになる。

(二) 仮りに被告に契約責任が認められないとしても、被告は精神科診療所を開設する医師として、前記(一)(2)の事情のもとでは前記(一)(3)のとおり診療看護についての注意義務を怠つた過失があるから、亡君江の死亡につき原告らに対し不法行為に基づく責任がある。

4(損害)〈略〉

5(権利承継)〈略〉

6(結論)〈略〉

二、請求原因に対する認否

1  請求原因1は原告孝子らの身分関係は不知、その余の事実は認める。

2  請求原因2は踏切への侵入態様のみ否認、その余の事実は認める。亡君江は降りていた遮断器の棹を持ち上げて踏切に入つたものである。

3  請求原因3(一)(1)は認める。

同3(一)(2)のうち、(イ)は亡君江に精神病での通院歴のあること、被告の五和貴診療所に入院したことは認め、右診療所付近が交通頻繁な危険な場所であるとの点は交通頻繁なのは都下どこでも同じで危険ではなく、開放病棟とある点も、正確には開放病棟とは精神病院(閉鎖)内ではなるべく開放的に治療するということで、本診療所はむしろ精神病院と社会との中間施設と表現するのが適当である。(ロ)は被告が亡君江を自殺の危険ありと特別注意していたとの点を除き認める。一応注意していただけで深い意味はない。(ハ)は亡君江の症状が軽快に向つたのと散歩の点は認め、その余は否認する。(ホ)は否認する。亡君江は被告や五和貴診療所の看護婦らの手厚い看護で着実に快方に向つていた。(ヘ)は否認。亡君江は入院以来次第に軽快し、本件事故当時ほとんど寛解(社会復帰可能な状態)に近いほど回復している状態にあつたし、被告の投薬していたのは精神安定剤とその副作用を除去する薬であつて、その服用により意識障害を起すことはない。なお、本件事故は亡君江が何らかの理由で厭世的になつて発作的に自殺を図つた疑いが濃い。その原因としては同女が自己の病気を不治として悲観していたこと、当時勤務先から職場復帰を拒絶されていたこと等が考えられる。

同3(一)(3)の主張は争う。本来、被告の契約上の債務は被告の人的、物的設備の範囲内で現代医学の一般水準によつて患者(亡君江)の治療に当るというもので、五和貴診療所は軽症の精神病患者を対象とした小規模の中間施設的診療所であるから、その規模、治療方針からしても到底散歩に看護人を付することは考えられず、亡君江もそれを承知のうえ入院したというべきである。現在の精神病の治療として寛解直前の患者に基本的、初歩的な散歩をさせることは治療上当然のことである。亡君江は被告の適切な治療によつて当初見られた幻覚、妄想等も順次軽快に向い当時ほぼ寛解の状態で、本件事故当日午前中も他の患者たちとダンスをしたりして朗らかに過しており、普断と異つた様子もなかつたので、自殺は到底予見不可能であつた。亡君江の自殺は前記の原因で発作的に行なわれたもので、被告の治療行為と同女の死亡との間には因果関係はない。〈中略〉

三、抗弁

(不可抗力)

現在の精神病に対する治療は、患者をひたすら危険視し社会から隔絶したうえで治療を施すことをその基本とするのではなく、あくまで治療の最終目標は患者の社会復帰にあり、患者の自由も極力尊重すべきであるから、治療の過程においても常にこれらのことを考慮する必要がある。被告は、長年精神病患者の治療に当つて来た経験から、右の従来の治療方法の欠陥を自覚し、特に精神病院と社会との橋渡しのための施設の不備を痛感したので、軽症患者や精神病退院者の予後のために本診療所を設立した訳で、そこでは患者の自主性を尊重して拘束感を無くし、患者の症状が軽快して散歩等に特段の危険が認められなくなつた場合には積極的に集団散歩、単独散歩を奨励する方法を採つてきたのであり、その際患者に看護人を付けることは治療目的、人的物的設備および患者の人権からも望ましいことではない。被告は、右のような治療の基本方針に沿つて亡君江の治療に努めて来たのであり、同女の治療経過をも考え併せると本件のような突発事故まで防止することは全く不可能といわなければならない。

四、抗弁に対する認否

抗弁は否認する。確かに一般論としては患者に対する開放療法を行なうことは妥当であろうが、右開放的な治療が医師の責任を軽減することに緊がるものではない。右の治療は人的、物的設備の整つた施設でよりきめ細かい診療行為の実施と安全保護のための措置の裏付けを伴つてのみ行なわれるべきであり、それを整えないで開放療法を行うのは犠牲となる患者の切捨て以外の何ものでもない。

第三  証拠〈略〉

理由

一請求原因1(当事者の身分関係等)のうち、亡孝平訴訟承継人原告孝子らの関係を除いては当事者間に争いがなく、右原告孝子らの身分関係については〈証拠〉によりこれを認めることができる。

二請求原因2(本件事故の発生)のうち、亡君江の本件事故のあつた押上三号踏切への侵入態様を除いては当事者間に争いがない。右侵入の態様については、〈証拠〉によれば、道路両側から降りていた遮断器の棹の中央の隙間から亡君江はふらふらと同踏切内に入り電車に接触したことが認められ〈る。〉

三請求原因3(責任原因)について判断する。同3(一)(1)は当事者間に争いがない。同3(一)(2)のうち、亡君江に精神病での通院歴のあること、同女が被告の経営する五和貴診療所に入院したこと、同診療所は開放的な施設であること、亡君江の入院時の病状、同女が自己の病気に悲観していたこと、同女の病状が少くとも一時期は軽快に向つたこと、および散歩の点は当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、亡君江は昭和四一年八月から同四三年一〇月まで、被害念慮(妄想)、関係念慮(周囲の出来事が自分と関係があるように思えたり、周囲から迫害されているように感ずること)があるとして毛呂病院精神科に通院治療を受けたこと、同女は昭和四八年一月二二日自ら被告の経営する五和貴診療所に来院し、頭重やイライラするというような神経症状と被害念慮による不安感等を訴えて診察を受け、精神分裂病と診断されて同日右診療所に入院していること、五和貴診療所は、被告が昭和四三年三月に所謂精神病院と社会の中間施設を目ざして精神病の軽症者や精神病院退院者を対象として設立した通院患者中心ではあるが、入院患者一六名収容の設備も有する診療所で、医師二名(内一名非常勤)、看護婦四名(内一名非常勤)、心理担当一名(非常勤)、ケースワーカー一名その他の職員を擁していること、被告の亡君江に対する治療は診察のうえ各種の向精神薬とその副作用を除去する薬を一日、三、四回服用させて病状の改善を図ると共に、生活指導等でリハビリテーシヨンと治療を行うという方法であつたこと、なお、散歩は後者の一環として行われるもので集団散歩と単独散歩があり、集団散歩は特に問題がない者につき入院後概ね一週間で、単独散歩はその後一週間位して各許可になり、右散歩は時間がほぼ午前一〇時、午前一二時三〇分、午後五時から各一時間位、目的地が付近の隅田公園、百花園と指定され、出かける時に看護婦に一応挨拶して行く他は時折看護婦が一緒に付いて行く以外、特に監視等をせず自由に行わせていたこと(その他の外出も被告が随時許可していた。)、亡君江は昭和四八年一月二二日に入院したものの無断外泊等で実際に入院を継続し始めたのは同年二月二日からであるが、同月一二日に集団散歩、同月一九日に単独散歩が許可されていること、同女の入院時の病状は当初かなり妄想気分が強く被害念慮、関係念慮があり、自己の病気を悲観しており、一応自殺の可能性が考えられ、被告に元気付けられたりしたが、被告の投薬等により多少の起伏はあるものの次第に軽快していつたこと、昭和四八年二月下旬に亡孝平から亡君江の退院希望が出されたが、被告はまだ症状に波があることや服薬の履行確保、亡君江の根気についての不安等から不適当として同時点での退院を認めず、一応同年四月下旬を目途に治療を継続したが、亡君江は入院が嫌になり無断退院をしようとしたり無断外泊をしたりしたこと、亡君江は本件事故当日も特に変わつた様子もなく午前中は他の患者らとダンスをしたりし、午前一二時に服薬も済ませたうえ散歩に出て、午後一時五〇分頃本件押上三号踏切で発作的に右踏切内に入つて電車自殺を遂げたことの各事実が認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。確かに、原告らの指摘するとおり亡君江に対する投薬量の増加していること、同女が三、四月に神経症的に反応を示したりしていることは認められるが、前掲の各証拠によれば、反面、前者についてはその増加は漸増に過ぎず、亡君江の病識が未だ不鮮明であるのでそれを寛解させるための方法であつたこと、後者は精神分裂病の妄想気分がとれ寛解に近くなつたため本来の同女の我儘な性格が表面に現われて来て右挙動になつたものと認められるので、右各事実も亡君江の病状悪化を示す事実とは認めえず、右認定の妨げにはならない。事故原因に関する原告の主張は、前掲の各証拠からも、亡君江の服用した薬の中には催眠作用を伴うものもあるが、かえつて覚醒作用を有するものもあり、量や個人差もあつて一概にはいえず、亡君江の場合は服用により意識が清明になり、本件事故前にも午前一二時頃服用して午前一二時三〇分からの単独散歩に出かけているのに何らの事故もなかつたこと(なお、本件事故は午後一時五〇分頃である。)が認められ、また、当時亡君江は寛解に近く、しかも服薬後であり意識はむしろ清明であつたことが認められるから、原告の主張は到底採用できない。

そこで進んで同3(一)(3)について判断する。〈証拠〉によれば、一般に精神病患者には通常人に比して自殺者が極めて多く、病初期、軽快期にもかなり多くの自殺がみられることが認められるから、精神病患者を開放病棟に入院させて治療、看護するに当つては、入院患者の病状、挙動の変化等に十分注意し、患者の自殺事故を未然に防止すべき契約上の義務があるというべきである。本件について右義務の違背があつたかを亡君江の病歴、被告の治療、看護に即して検討するに、前記のとおり、亡君江は当初妄想気分もあり自己の病気を悲観していたこともあつて被告も一応自殺を疑つたこと、しかし同女はその後被告の投薬等で次第に軽快に向い入院中特に自殺を図つたこともなかつた、(〈証拠判断、略〉)本件事故は亡君江が発作的に行つたもので当時同女の意識は清明であつたこと、右自殺当日、亡君江は普段と特に変わつた様子もなく、昼の散歩に出かける時間帯に単独で外出した際の自殺であつたこと等の各事実が認められ、また、被告が生活指導等として行つていた散歩をさせることも、〈証拠〉から窺えるとおり、患者を社会との接触の中で治療するという現代精神医学上確立した治療法の一環であつて特異な方法でもないことが認められるから、これらのことから考えて、本件において被告が亡君江の自殺を予見しそれを防止すべきであつたとはいえないといわなければならない。そうであれば被告に契約上の債務の不履行はなかつたというべきである。

同3(二)について判断するに、被告が亡君江に対し前記のような具体的注意義務を負つていたことは認められるが、右義務違反があつたとの点は前記のとおり認め難い。そうであれば被告に不法行為上の責任もないことになる。

四以上の次第であるから原告らの本訴請求はその余の点につき判断するまでもなく失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(山田二郎 矢崎秀一 有吉一郎)

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